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アート&エンターテインメント
2020.03.09

江戸の粋を受け継ぐ東をどり①
―料亭が支える芸者の晴れ舞台

《今年の東をどりは、新型コロナウイルス感染拡大防止のため開催中止となります。》

5月末日の初夏の頃、新橋演舞場が華やかな大料亭へとかわるのをご存知だろうか。艶やかな芸者衆が三味線の音色に合わせ舞台で優雅に舞い、新橋料亭が誇る料理と美酒が会場に花を添える。普段は限られた人しか体験できない、豪華絢爛な新橋の料亭文化がそこに出現する。今年5月には第96回目の公演を控え、記念すべき100回目に向けてより一層の盛り上がりを見せる「東をどり」。この特別な催しを引き継ぎ支え続ける新橋の老舗料亭 金田中の4代目、東京新橋組合の頭取も務める岡副真吾(おかぞえ しんご)氏に話をきいた。


東をどりの公演当日、新橋演舞場の入り口には多くの人が列をなす。(撮影=COO PHOTO)

料亭文化と芸者
「『料亭』と聞いて、どのようなイメージがありますか?」と、岡副氏より唐突に質問を投げかけられた。“一見さんお断り”で、その内部は未知のベールに包まれた謎の存在という印象が多くの人にあるのではないだろうか。そんな料亭という場所について、岡副氏はこのように説明をしてくれた。「建物は伝統的な日本建築からなり、室内にはお香が焚かれ、床の間にはお軸と花がしつらえられています。そして目にも美しい会席料理が、着物姿の仲居によってサーブされる。さらに他とは違うのが、お料理とお酒を楽しみながら、芸妓の踊りや唄、三味線などの邦楽が堪能できること。まさに様々な日本文化が一堂に集い交差する場所なのです。」また、「簡単に言えばディナーショーが楽しめる場所ですね」と笑う。


東をどりを主催する東京新橋組合の頭取を務め9年目を迎える岡副真吾氏。 (撮影=COO PHOTO)

そもそも、料亭文化の起源は江戸時代後期から明治時代にさかのぼるという。「日本各地に花柳界と呼ばれる花街ができたんです。芸妓を派遣する置屋、料理の仕出しを行う料理屋、そして場所を提供する茶屋の三業種で成り立ち、たいへん盛り上がったのです。」なかでも新橋花柳界は、明治時代に日本一の社交場といわれるほど発展し、政府の要人や政財界のトップたちが新橋の茶屋や料理屋に足しげく通った。金田中も戦前までは、仕出し料理をとる茶屋であったという。

一流を識る客人たちの前で芸を披露する機会が増えた新橋の芸者たちは、さらに技芸の向上に努めた。そんな彼女たちの努力の集大成を発表する場として1925年に芸者組合と料理屋組合が創設したのが新橋演舞場。そして同年、こけら落しとしてはじめての「東をどり」が行われた。

戦後、東をどりの最盛期
新橋演舞場が誕生して以来、舞踊発表会として定期的に開催された東をどりだったが、第二次世界大戦の空襲により演舞場が焼け落ち、継続が難しくなってしまう。「戦後、『戦争により希望を失くした人々のために夢を与えたい』と私の曽祖父、金田中の2代目、岡副鐵雄(てつお)氏を含む先人たちが復興に向けて立ち上がったんです。そのおかげで、1948年にはめでたく新橋演舞場が再建、芸者組合の菊村頭取を中心に東をどりも復活することになりました」。この頃には金田中を含む多くの茶屋が、料理も提供するようになり現在の料亭へと変化を遂げていく。

娯楽が少なかった戦後、東をどりはその内容を以前の舞踊発表に、セリフを交えた「舞踊劇」という新機軸に方向転換。劇の脚本は後のノーベル文学賞作家である川端康成や谷崎潤一郎ら、そして舞台美術は日本画の巨匠、横山大観など、日本を代表する芸術家が東をどりに参加し、大変な話題となった。「さらに公演を盛り上げたのがスター芸妓の登場です。男姿が美しいと評判のまり千代は、ブロマイドまで発売されました。今でいうアイドルですね。そのファンは女学生など、それまでは料亭や芸者とは無縁だった一般客にまで広がり、新橋演舞場の前には大行列ができたほどです」。


スター芸者と呼ばれたまり千代のブロマイド。彼女に憧れて芸妓を目指す若者も多かった。(提供=東京新橋組合)

東をどりを大料亭に
戦後、東をどりの復興には金田中3代目である岡副昭吾氏も学生時代から演出で関わるなど、その発展に大きく尽力。さらにスター芸妓の誕生もあり、まさに黄金期を迎えていた。しかし、2000年頃にはその人気にも陰りが見え始める。危機感を持った町の人々に背中を押され、当時の東をどりの責任者であった岡副昭吾氏の息子、現4代目の岡副真吾氏が中心となり大改革を行うこととなった。

「父の目が黒いうちは、自分は東をどりに口出しはしないと思っていた」と話す岡副氏だが、周りの支援を得て何かに取り憑かれたようにその変革を押し進めたという。まずは芸者衆を必死に説得。再三の話し合いでようやく全員の納得を得て、その足で3代目がいる演舞場へ向かった。しかし、そこでの説得も簡単ではなく、父の強い反対を受けたという。そして最後には「先人たちが築いてきたものを変えるのであれば、責任だけは持てよ」、そう言い放たれたそうだ。「この言葉だけは、今も絶対に忘れてはいけないと思っています。」そう話す岡副氏からは強い覚悟が感じられる。

それから10年あまり、東をどりは舞踊劇から万人が親しみやすい町のお祭りに、そして一見さん大歓迎の「大料亭」へと変化していった。「料亭は日本文化の交差点」と言う岡副氏の言葉通り、そこには食と酒、芸者の踊りの3つを軸に、芸妓の舞台はもちろん、幕間に楽しめる料亭の弁当や銘酒、芸者衆によるお手前など、さまざまな日本の伝統文化が交差する。また、公演時間は2幕で1時間に短縮され、芸事に詳しくない人でも飽きないよう工夫されている。「踊りの演出は花柳流、西川流、尾上流の3流派の家元が毎年入れ替わりで担当するため、毎回違った東をどりが楽しめます。でも、フィナーレだけは昔から変わりません。黒留袖の引き着に身を包んだ美しい芸者衆が舞台に並んで口上を述べ、一糸乱れぬ一体感と迫力のある歌と踊りで締めくくる。何度見ても鳥肌が立ちます。最後に芸妓たちが客席に向かって手ぬぐいを投げるところで、舞台と客席が完全にひとつになる。東をどりのクライマックスです」。


(撮影=COO PHOTO)

記念すべき第100回公演に向けて残すところあと5年。岡副氏はこれまでの大改革に加え、また新たな心躍る企画を考えているという。先人たちが築きあげ、100年もの年月を経ても受け継がれるこのお祭り。誰もが日常を忘れる、華やかな夢の舞台は、いまの時代にあった形でまた新たなファンを獲得しつつあるのだ。

[Part2へ続く]

 

 

96 東をどり
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※今年の東をどりは、新型コロナウイルス感染拡大防止のため開催中止となります。