京都府景観資産登録第一号、その後2015年には日本遺産にも認定された和束町。石寺の茶畑にかかる霧は、和束のお茶に豊かな味わいをもたらす。
2020.03.19

宇治茶のふるさと、京都・和束町へ ①
山間の絶景、800年受け継がれてきた茶畑

京都府南部、京都市内からは車でも列車でも1時間半の距離にある和束町(わづかちょう)。ここが日本茶の最高峰、宇治茶のふるさとであり、現在もその生産量の約半数を占めていることは、実は日本人にもあまり知られていない。東西を貫く和束川に沿って連なる山並みの合間で、茶の生産が始まったのはおよそ800年前。この地に点在する小さな14の集落が、山肌に茶畑を切り拓き、技術を磨き、その生業を守り続けてきた。昔ながらの景観が今も息づく和束町を旅してみよう。


約800年前、和束で初めてお茶の木が植えられたと伝えられる原山。

清流が近く、水はけと風通しのよい山に囲まれた土地であること――この理想の茶づくりの地の条件にぴたりと当てはまる和束町。山肌に沿ってまるでパッチワークのように連なる茶畑は、麓から見上げると緑の畝が空へとつながっていくかのような絶景である。

そもそも日本茶のルーツは1000年ほど昔、鎌倉時代に遡る。最初は薬として禅寺の僧が用い、禅宗の普及・拡大とともにお茶も各地に伝播されていく。和束町に伝わったのは800年前とされ、東に位置する湯船(ゆぶね)から原山、釜塚、撰原(えりはら)、白栖(しらす)、石寺など14の村の先人たちは、急峻な山の傾斜地を手鍬で開墾し、力を尽くしてこの地に茶産業を発展させていったという。そして今から150年ほど前の明治維新をきっかけに、海外への輸出にも挑戦。宇治茶を世界に広め、今につながるグローバルな日本茶ブームの先駆けとなっていったのもここ和束町なのだ。

800年の時が経ち、日本茶は世界へと広まった。しかし和束町全体の風景は昔と変わらずのどかで温かい。茶畑を中心に巡る四季の美しさ、日本人ならずとも心打たれる静かな里山の佇まい。自然と人がともに生きる土地ならではの豊かさが、このエリアには満ち満ちている。


満開の春を告げる桜の頃に刈り取られた茶葉は風味の優しい赤ちゃん番茶の原料となる。


立春から八十八日目の頃、5月初旬に新茶の収穫が始まる。


夏の強い日差しを浴びたカテキン豊富な茶葉はコクのある秋番茶となる。

山を包む霧が生み出す和束茶の豊かな味わい
茶葉の収穫は年に数回行われ、新芽が煎茶、そのあとに摘まれたものは番茶となる。ハイライトは5月初旬、芽生えたばかりの新芽を収穫してつくられる新茶だ。「一芯二葉(いっしんによう)」といって、未だ開いていない中心の芽とその両脇に寄り添う一番新しい若葉を一つ一つ手摘みする。和束町では収穫から工場での製茶までをすべて一貫管理しているので、5月の薫風のようなフレッシュな新芽の風味がそのまま煎茶に反映される。淡く透き通るような黄緑色の水色(すいしょく)、口の中を転がるようなまろやかな甘み。そして独特の霧の香り。これは「霧香(きりか)」といい、日中夜の温度差が激しい和束町に発生する霧が茶葉を包み込むことで強い日差しから茶葉を守り、それによって生まれる独特の旨味と芳香のこと。日本茶の高級ブランドである宇治茶の中でも、和束茶がその最高峰といわれる理由でもある。

新茶を摘んだあとに整枝作業を行う過程で収穫された茶葉は刈り直し番茶となり、再度夏に出てきた新芽が二番茶。秋になると再び茶葉を収穫して秋番茶が作られる。年に何度も、さまざまな味わいのお茶をもたらしてくれる和束町の茶畑は、まさに京都の、そして日本の宝物なのだ。


八十八夜前後に行われる新茶の収穫作業。

人口4000人足らずの小さな和束町。そこには日本最高峰のお茶があり、見たこともない絶景があり、そして日々を営む茶農家の人々がいる。旅人はそこで、茶摘みをはじめ小さな町ならではのお祭りや農家の暮らしを体験することができるという。第2回はそうした和束町ならではのアクティビティについて紹介していこう。

 

和束町地域力推進課 和束町活性化センター
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